緊急取材!TAKUYAさんに聞く「福岡をアジア音楽のハブに」構想の全容

緊急取材!TAKUYAさんに聞く「福岡をアジア音楽のハブに」構想の全容

去る2015年4月に行われたSlush Asiaで、ミュージシャン・TAKUYAさんより突如発表された「福岡にスタジオを建て、アジア音楽のハブにする」構想。

2001年に惜しまれつつも解散した「JUDY AND MARY」のギタリストとしての活躍はもちろん、近年では楽曲提供・プロデュース、「商店街バンド」での活躍も話題の、ギタリスト・ソングライター・プロデューサー TAKUYAさん。そのTAKUYAさんが何故福岡に目をつけ、このような構想を抱いたのか?

福岡のクリエイティブな情報を扱うOREOKA.COMとしては、とにかく一刻でも早くこの構想の詳細を伺い、福岡の読者に情報を届けなければと、インタビュー取材を敢行しました。

—福岡という街に注目するようになったきっかけは、どのようなものですか?

福岡はもちろん、ツアーで何度も来ていました。また、中学も長崎で、デビューした最初のバンドが僕(京都出身)以外全員熊本出身だったりと、九州は音楽については熱い土地柄だなとは昔から感じていました。

ただ実は今回福岡を選んだのは、色々な日本の街を選んでいる中で最も望む条件にマッチしたという、いわば消去法で決まったのです。

その条件とは「電源」「立地」「カルチャー」の三つだといいます。

まず「電源」。日本国内の電源の周波数は東日本が50Hz、西日本が60Hz。この違いは、実は機材を扱う上で重要なポイントで、60Hzであればギターアンプを鳴らす際などに「完全に、音のパワーが違う」のです。「立地」は福岡空港が天神や博多などの市街地に近いこと、そして福岡空港からアジアにも近いこと。「カルチャー」は、ファッションやスポーツなどでも「新しいことに対して、みんなポジティブに考えてくれる街」であること。また「カルチャー」面ではラーメンが盛んな土地柄というのも音楽業界に相性が良いそうで、それは音楽業界が夜仕事を終える時間が遅く、夕食を食べようと夜遅い時間から開いているお店を探すとラーメン屋さんとなる可能性が圧倒的に高い、ということなのです。

—どういった「消去法」の過程で、福岡に決まっていったのでしょうか?

「東京でなくてもいいじゃん」と考えた時に、まずは横須賀など関東近郊は東京がある分、スタジオを作ってもそこに集まったり引っ越したりということがない。札幌も街の規模は良いですが、電圧が東京と一緒で50Hz。東日本という選択肢はなくなりました。そこから西日本で考えたのは名古屋、京都、大阪、神戸、広島、福岡、沖縄。名古屋と大阪は生活費が東京並み、神戸は空港が将来的にどうなるか、広島は街の規模的にちょうどいいけれど空港から市街地が遠い。沖縄はリゾートスタジオとしてはいいけれど、雰囲気的にはガツガツ仕事をする感じではない。最後には京都と福岡が残ったんですけれど、京都は空港がない点と、観光資源の保守が重要であり新しいものが出来づらい、観光シーズンに宿代が跳ね上がり過ぎる、地価も実は安くはないんです。

そういう中、福岡は空港も近いし物価も安いし…という結論に至ったのが昨年の夏頃です。特に空港が大きいですね。やっぱりアジアに東京より圧倒的に近い。さらに特区として多様な外国人を受け入れるべく資格を見直していると市の方からも聞いたんですが、そうなるとアジアからアーティストが来日もしやすくなりますし。

—何故、アジアに着目したのでしょうか?

プライベートでは他の国もたくさん渡航経験ありですが、実際に仕事としてはまず北京と台北に行きました。そこで感じたのは、アジアはお金もあってやる気もあって練習も沢山するけれど、音楽産業に関するノウハウがないということです。昭和の時代から、レコード大賞とか紅白とかもそうですけど、音楽産業が発展して大成功した。今は売り上げが下火とはいえ、そういう歴史を持っている国はアジアで日本だけなんですね。

音楽産業が元気だった1970-1990年代に働いた人達の中では、業界も下がっているし、体も疲れてきたし、ただ音楽では仕事はしたいという「セミリタイアしたい」「もう東京はいいかな」と思っている人って沢山いるんです。だったら、スタジオを作ってアジアの若者が沢山来て、アドバイスしたり仲良くなっているうちに何かが生まれるという、僕らみたいなキャリアを積んできた組の次へのステップにもなれるのかなと。もちろん、色んな国に呼ばれてコンサルとして行くことも有りだと思いますが、その場合向こうに行っても「あの機材がない」ということもあるわけです。

これからハイレゾの時代が来るのに、生で演奏したらすげーぞ!となる音を録れるスタジオが、東京にないという面もあります。昔のように「じゃあLAに行って録るか」という予算も業界として難しくなってきている。そうなると僕が国内で面白いなと場所を作りたいなと。

現在ハイレゾが話題になっている中、TAKUYAさんは2002年、ニューヨークのスタジオで「僕のキャリアの中でも最も困難なもの」と振り返る高解像度でのDSD(Direct Stream Digital)方式でのレコーディングを経験しました。「部屋に響きが共鳴し、自分のプレイがすごくよく聞こえる」一方「プレイの未熟さもシビアに聞こえる」というレコーディング。本当の「良い音」と出会ったというこの経験が、音に対するこだわりの原体験としてあるそうです。

TAKUYAさん曰く、当初は3年後に竣工、上手く回り出すのが4〜5年後という考えだったのが、北京などでアジアの空気に触れると「それじゃ遅いな」と刺激を受け、再来年には何かしら出来ていないと「間に合わない」。
実際、北京にもこの構想に近しいスタジオがあるが、残念ながら機材は揃っているが使い方を知らないという状況だそう。また、福岡のスタジオが軌道に乗れば、南アジア向けの拠点も作るべきだとも考えており、ミュージシャンの腕、アジアにおける距離感、人口などからジャカルタをイメージしているようです。

さらに、実際にどういったスタジオをイメージされているのか詳しく伺うことが出来ました。

—スタジオで生まれる音楽ジャンルは、どのようなものをイメージされていますか?

中国のアーティストとかを見ていると、さっきまでヘビメタをやったと思ったら次はポップなのをやって、それが同じアルバムに一緒に入ってるんですよ。日本人から見ると「とっ散らかってて、アーティスト性ないんじゃない?」と言いがちなんですけれど、「何のジャンルだったら」という話を、僕らガラパコス化している日本人が言うべきではないなと。アジアがなんでも受け入れているように、全ジャンルいけるようにしたいですね。唯一悩んでいるのはフルオーケストラを可能にするかどうかだけかな…フルでいれると100人くらいになって、全音楽ジャンルの中で圧倒的に人数が多いんですよ。物理的にマイクや椅子も必要になるので。

—構想としては具体的に、どういうスタジオになるのでしょうか?

理想は僕らプロデューサー数名に一部屋ずつセッティングしてあって、その別のフロアに若手が使う部屋があって、なんなら仮眠も出来たりする。そんな中で「こういう依頼が来た」「こういうのおまえ得意じゃない?」とか話しながら。

ミュージシャンの一日の生活って、例えば依頼が電話かメールで来ますよね。そこからスタジオのカギをあけてコンピューターを起動して、大体形になったら夜。帰ろうという時に飯はどこに行くのかなという時にラーメンかコンビニ。そのあと家に帰って、今日誰も会ってなかったな…という生活をみんな東京や日本の各地でやっているんです。ただこれを一つにまとめられたら、隣の部屋で「どんなのやってるの?」とか会話も生まれるので。

これからのミュージシャンはどう世に出て行くかを考えなきゃいけないし、出て行き方が分からないなら、出て行かせてくれそうな誰と組めばいいのかとか、全部一人でやるんじゃなく、もっと人とつながらないといけない。そういった動きが自然に出来るような場所にしたいんです。

プロデューサー的視点から、アイデアを次々と語るTAKUYAさん。そのTAKUYAさんにとって「彼の背中を見ているうちに音楽プロデューサーという職業に憧れ始めるのにさほど時間は掛かりませんでした」という存在が、2014年に永眠された音楽プロデューサー・佐久間正英さん。TAKUYAさんは22歳の頃、JUDY AND MARYの2枚目のアルバム制作で佐久間さんと初めて出会いました。

当時佐久間さんは、「大型のスタジオでレコーディングするのが当たり前だった」という時代に自分のスタジオを作って経営されていたそうで、TAKUYAさんも「ああいう姿を見てきたから、僕がもっとすごいものをやらなきゃな、そういう役割に生まれてきたのかもなーと感じている」と語ります。

佐久間さんは生前、音楽制作の予算が削られることが『音楽の質』を落とすことになり、「もしこのまま、より良い音楽制作に挑めないのなら僕が音楽を続ける必然はあまり見あたらないと思えてしまう。そんな風にして今音楽家は音楽を捨てるべきかの岐路に立たされている。」(佐久間さんブログより)と危機感を抱かれていました。そして、その危機感を佐久間さんの間近で感じていたであろうTAKUYAさんが今、このスタジオ構想の実現に向けて動き始めています。

—佐久間さんの存在は、やはり大きいですか。

今でも生きてたら本当に面白かったのにね、って思う。佐久間さんはすごく仕事が早くて、こないだアジアで仕事早いねって絶賛された時はちょっと「佐久間の気分」だったね(笑)。

ただ、佐久間さんは結構人見知りだったのと、あまり飲みの席にも出なかったことは、反面教師かな(笑)。僕はこういう性格だから、Slush Asiaでも片っ端から必要そうな人に声をかけて「どう思います?」「興味あります?」とか聞いていました。

今はSlush Asiaでのプレゼンを経て、自治体や企業とも話をする一方で、「音楽を作ろうというのは、みんなのものだから」と、実際に住んでいる市民や、地元のミュージシャン、地元のメディアなどの意見も聞いてみたいというTAKUYAさん。Slush Asiaの会場にいなかった方も、この記事を読んで興味を持った方は、「どう思います?」との問いに自分ならどう答えるか、是非ワクワクしながら考えてみて欲しいと思います。

OREOKA.COMでも、この構想を引き続き追いかけていく予定です。